都市の比較 の続き 大槻
この話の最初、長くなるといったのは東日本大震災に触れざるをえないからである。以下、私が関係した事物について記す。
平成23年(2011)3月11日。事務所にいた。わが事務所は地震を敏感感じるように建てられているから、地震が始まって相応に揺れ始めたが、いつもとは違ってゆっくりとしかもかなり長い間揺れた。
東北に大きい地震があったとはすぐに知れたことだったが、あんなに遠いところの地震が松本のこんな建物まで揺らすことにびっくりした。まず考えたことは「自分が設計した建物は無事であろうか」ということである。電話をして安否を確認すればよいがそんな度胸はなかった。「壊れた」との返事があったときの対応の仕方が解らなかったからである。
亡くなられた青木設計事務所の青木所長が話していたことに、阪神淡路地震の時、やはり恐ろしくて自分の設計した物件を電話で確認する勇気はなかったといっていた。そんなものである。
震災後1か月くらいたったころ恐る恐る確認に行った。最初に行ったのは「この建物が無事だったら、他の建物も大丈夫だろう」と考えていた住宅。崖、とは言えないけれど、下の公園から見上げるような高いところに建てた住宅。鉄骨造、キャンティで公園に4m付き出している。そこからさらに2階のベランダを60φの2本のパイプで吊り下げている。宮脇檀のブルーボックスハウスを一寸意識した建物。場所は須賀川、郡山の南にある市で怪獣映画の円谷英二監督やマラソンの円谷幸吉が出たところである。ちなみに円谷は地元では「つむらや」と呼ぶ。

下の公園は災害用の仮設住宅で一杯。遠くからドキドキしながら眺めた。建っていた。本当に安堵して訪問させてもらった。「友達も皆心配して、無事かどうかの電話を多くもらった」と言っていた。ガラスが一部破損した程度で大丈夫だった、とのことであった。
ひと安心して他の建物を見て回る。被害としては一軒建ての茶室の入口の柱が、アンカーボルトで止めてなかったので位置がズレていたのと、RC4階建ての住宅兼店舗の店舗名をローマ字でくりぬいたRC壁のほしい部分が折れた程度だった。他の建物も構造的には無事だった。内装や家具等は傷んでいるはずであるが。
先ほど述べたように須賀川は震度6強だった。郡山は震度6弱。調べてみると距離は12km。松本市内と松本空港位の距離と同じくらい。地震が起きてから1か月経っているからひどい被害の建物は撤去されていたが、震度6強は戦前の土壁で作られたような建物はほとんど壊れた。昭和30~40年代に建てられたと思われる建物は結構残っていた。
郡山ではRCで1階がピロティのアパート、柱が座屈してつぶれたまままだ残されていた。一般にはRCも鉄骨も外壁が痛んでいる建物は格好あったが、構造的には大丈夫そうだった。庁舎はいずれも被害を受けたが、須賀川の庁舎は使い物にならなくて建て替え、郡山は金をかけて改修したようである。
震災の次の年、浪江町の除染に関する調査の依頼を受けた。浪江町は福島原発に近い町で多大な被害を受けた。名前を承知している人も多いだろう。除染の調査とは、(除染と言っても消防車で放水して屋根や外壁についている放射性物質を洗い落とすだけであるが)その際に地震で壊れたのか、放水で壊されたかを判断するために、建物の現状を記録する。
懇意にさせてもらっている郡山の事務所から依頼された。建築士の資格がいるから人手が不足しているということ。2日間時間をとってほしいとのことだった。仕事自体は東京の準大手の建設会社が受け、郡山の調査会社が下請けとなり我々が手配されたという順序になる。
前日に身体の検査をして(被爆量がわかるように)当日は手配会社の車で現地に向かった。運転される方は何度も来ているので、原発に近いところの来ると「この辺に来ると線量計が鳴る」と、確かに鳴った。そうすると防護服に着替えなければならない規則だがそんな面倒なことはしない。最も、被爆には全く機能しない防護服ではあるが。

現地につく。幸い役場は放射能の通り道からははずれていて使用できた。調査を始める。原発の損壊で全員避難したから建物は震災直後もそのまま、生活を中断して避難したのがわかる。建物の寸法は調査者が適当に記入する。木造の場合は柱の位置でおおよその寸法はわかるがその他の建物は本当に適当である。最も、被害があったらきちんと測量するのだろうけど。
調査で一番びっくりしたのは日当がでたことだった。こっちはボランティアのつもりでいたのだが、確かに資格を持った調査員を確保するにはさもありなん。日当が4万円、その他何かで2万円。都合6万円がもらえた。こちらから郡山に行って帰ると何やかなで10万円近くかかるので個人的には出費が上回ったが、次の日が雨で中止にならなければ2日分としてかえって儲かってしまったはずである。
こういうお金は積み上げ方式は取れないし、前例もないから掴み金で政府から億単位で降りてくるのだろう。地元の、個人でやっている事務所は金銭的にかなり助かったところもあるだろうし、元受けその他も相当儲かったことだろうと思う。
次の日は調査がなくなったので、懇意にしている事務所に「一番被害があった場所はどこか」と聞くと“石巻”との話であったので石巻に行った。かつて街並みであったろう場所が、区画された草原になっていた。陸に打ち上げられた船がまだ残っていた。有名になった大川小学校があったところである。高さのある囲いの中は集められた建物等の残骸が積み上げられていた。地元出身の石ノ森正太郎の漫画館が傾いていたりもした。


平成25年(2013)からは“ルートイン釜石”の計画が始まった。地震と津波で何も無くなってしまったところに、まず、作業員の泊れるホテルを造る、という発想である。最終的には一般のルートインになったのだが。都合およそ1年半釜石に通うことになる。

引用元:ルートイン釜石HP
釜石には泊る所がないから花巻のルートインに泊まった。そこから2時間かけて電車で釜石に行く。釜石も石巻同様であった。建物の残り方が多少石巻よりましだった。建物の高いところ、多分4階か5階くらいのところに、ここまで水が来た、というラインと文言が書いてあった。残っていた本屋かデパートで災害当時の写真が載っている本を買った。ひどいものだった。両側の建物の間の道が瓦礫で詰まっていた。
工事が始まったころ事務所の丸山君と二人、業者の車で海岸沿いの被災地をたどりながら釜石から仙台の多賀城ルートインまで送ってもらったことがある。海岸から離れた高台に新しい町を造るべく、造成が行われていた。こんなところで生活が出来るのだろうか、と思いながら通り過ぎる。陸前高田の「奇跡の一本松」も観た。複製で残す意味は解らなかったけれど。
地震災害の復興に関しても問題を提起したいけれど省く。ちなみに当事務所で震災復興に多少なりとも関わったのは私と丸山君だけだと思う。
後年(平成30年)、事務所の藤澤君が遠藤新の住宅作品を見に行きたい、とのことで宮城県に近い福島県の新地町という海岸沿いの街へ行った。藤澤君に見せられればと思って、係の人に震災の後がまだ残っているところは無いかと聞いたが、もうすでにすべて片付けられてしまったとのことであった。